比較なくして分析なし(そもそも考えることの本質は比べること)#15

分析力・問題解決力

今回のテーマは分析における「比較」の意味

 12回から「分析」を行う際に留意しておく考え方について説明をしています。今回のテーマは、分析における「③比較して考える(関係性)」の意味合いについてお話しをします(なお今回の記事は、12回記事「分析を行う際の考え方(総論)」から続いています)。

前回までのおさらい

 まずは前回までの説明を簡単におさらいしておきましょう。
 12回目から後正武氏の本(『意思決定のための「分析」の技術』)から分析のエッセンスを私なりに構造化した下記図に従って分析の考え方を説明しています。

前回までは次のような説明をしました。

<12回目の記事:分析を行う際の考え方の総論>
「分析」では考え方が大事です。全体がどんな要素から構成されているのか、核心となっている事は何なのか、それがどんな意味を持っているのか、のように根本的に考えること。

<13回目の記事:「①大きさの程度と重要度」を考える」>
分析に限らず何をするにしても、まずは重要性の高いものから優先順位をつけるクセをつけること。その優先順位に従って事を進めること。ゆめゆめ思いついた事から始めない。
重要性を判断する際には次の5つの観点を意識すること。
 ①量的重要性
 ②質的重要性
 ③広範性
 ④発生可能性(確率)
 ⑤緊迫度・緊急度

<14回目の記事:「分析における「全体の把握と絞り込み」」>
分析では、実態(現象・事象・事実・データなど)を把握するだけでなく、全体との関係性や意味合いを読み解き、実戦で役に立つ分析結果を導き出すことが重要です。ポイントは次の4点です。
①分析はなんらかの形で経営判断に役に立つ結果を導くこと
②分析は事実(データ)をスタートとすべきだが、その意味合いを全体像(母集団全体)との関係で読み解いて、経営判断に役立つ情報を提供すること
③全体像(母集団全体)から問題点を絞り込むためには、母集団を切り分ける「切り口」が重要になること
④よい切り口は見つけるためには、仮説が必要なこと

 今回の記事では、上記構造図の「③比較して考える(関係性)」について説明します。

「分けること」と「比較すること」の2つは分析の基本的な手法ではあるが…

 今回のテーマである「比較すること」は、前回のテーマの一つだった「絞り込み(分けること)」とともに分析を行う上での基本的な手法です。後氏も次のように書いています。

われわれが現象を理解するための主要な手段として、「比較する」「比較して類似や差異を考え推論する」ことは、「分ける」こととともにもっとも基本的な分析の手法である。

(出典)『意思決定のための「分析」の技術』(後正武)(注)ハットさんが一部太字にした。

 それはそのとおりなのですが、だからこそ分析の技術を勉強しようとすると、この2つに関する様々な分析テクニック(手法)を先に知りたくなります。例えば、後氏の本(『意思決定のための「分析」の技術』)でも「ギャップ分析」などが紹介されており、そちらに目が行ってしまいがちです。しかしながら、こうしたテクニック(手法)を学ぶ前に、そもそも「比較すること」の本質的な意味を十分に理解することの方がのちのち色々な場面で応用が利くと私は考えています。
 なぜなら、「比較する」ことは、「ものを考える」ことそのものといってもいいからです。「比較する」ことを学ぶのは「考える」ことを学ぶのと同じことなのです。それゆえ、「比較」に関しては、分析手法の一つとして学ぶというよりも、ものの考え方の本質的な部分を学ぶという観点で受け止めて欲しいのです。

比較なくして思考なし

 先ほど「比較する」ことは、「ものを考える」ことそのものといってもいいと申し上げました。ここではどうしてそう言えるのかを説明します。
 まず「ものを考える」状態とはどんな状態かを思い起こしてもらうと、それは意識的であろうが無意識であろうが、必ず「問い」を持っている状態と言えます。例えば、今後のキャリアについて考えているのだとしたら、「今後のキャリアをどうしようかな?」という問いが先にあるのです。さらに、この「問い」は、キャリアに関して複数の選択肢があるからこそ生まれるのです。つまり、比較の対象があるから問いが生まれるのです。このことをフランス文学者の鹿島氏は分かりやすく次のように説明しています。少し長い引用になるのですが鹿島氏の著書から紹介させてください。

〈問いは、比較からしか生まれない〉
 問いというのは、比較の対象があって初めて生まれてくるものです。一つしかないところには、比較がありませんから、差異の意識も生まれず、したがって、問いも生まれません。
(中略)
 このように、「これはあれと違う、どこがどう違うのだろう、またそれはなぜなのだ」というような問いは、比較することによって初めて生まれるということです。比較でしか、差異への意識は生まれてこないのです。

(出典)「勝つための論文の書き方」(鹿島茂)(注)ハットさんが一部太字にした。

比較なくして、思考なし
(中略)考える力とか知の力といったものが稼働するには、感覚の対象が二つ以上感覚の前に現れること、そして、それに対して感覚が働きかけを行い、「比較」が行われるということが前提となっているのです。まさに、比較なくして思考なし、なのです。そう、思考が稼働するための大きな前提とは、比較が可能な状態に対象が置かれているということ、そして、感覚がそれに対して働きかけを行えるように「開かれている」という二つの条件の整備なのです。対象の比較可能性こそが思考の母となるのです。

(出典)「思考の技術論 自分の頭で『正しく考える』」(鹿島茂)(注)ハットさんが一部太字にした。

 鹿島氏が言う「問いは、比較からしか生まれない」という主張はとても重要です。例えば、ハムレットが「生きるべきか、死ぬべきか」と自問するのも、「この人と結婚しようか、しまいか」とか「進学しようか、就職しようか」という問いも比較の対象があるから生まれるのです。「だからどうした?」と言われそうですが、「考えること」は、すなわち「比較すること」だと意識しておくことは、自分が知らないことを考える場面では特に重要です。何かと比較すればいいと知っておくだけで、何か詳しくない分野において質問をされた時なども頭が真っ白にならずに済み、うろたえる機会は格段に減ります。
 これに関して鹿島氏は著書の中でとても参考になることを言っています。

 どんな分野であれ、その道のベテランになると、わざわざ二つのものを比較しないうちに、一つ見ただけで、その独創性、あるいは陳腐さがわかります。すでに頭の中には比較すべき対象が蓄積されているからです。
 たとえばベテランの古物商は、骨董の真贋を判断するときに、わざわざ本物と比べて見なくても、それだけで分かります。頭の中に比較すべきレファレンスがいっぱい溜まっているからです。これは、偽物も本物も、ともに数をこなして、その差異をしっかり頭の中にインプットしているからこそできることです。(中略)
 文芸評論でも、新しい小説なり何なりが登場したときに、蓄積のない人間が読むと、ものすごく新しく思えたり、難しく思えたりしますが、比較のレファレンスが沢山蓄えられている文芸評論家であれば、これはずっと前にあったものの焼き直しだ、しかも、かなり下手な焼き直しだと、一瞬で分かってしまいます
 ところが、この同じ優れた文芸評論家が、映画を見ると、まるで、ど素人と同じような素朴で陳腐な意見を吐くなどということが起こります。これは、映画の数をこなして差異を蓄積するということをやっていないために、優劣の判定のための比較の基準ができていないことを意味します。

(出典)「勝つための論文の書き方」(鹿島茂)(注)ハットさんが一部太字にした。

 どんな分野であれ、その道のベテランになろうとするならば、比較対象を蓄積していけばいいということだし、それは無意識にするよりも自覚的にした方がいいのです。また、自分が詳しくない分野でも、比較対象を意識するだけでも判断力が高まるということです。
 ところで、鹿島氏の文章で登場する「差異の意識」という言葉はキーワードです。「差異の意識」に敏感になるためには「類似性」にも気がつかなければなりません。比較では「類似性」と「差異性」の両方に注目しなければならないということです。

 日本語で分析と訳されている analyse という言葉はもともとは分解を意味するギリシャ語 analusis から来ているのですが、実は analyse はたんなる分解ではなく、分解したものから類似という点に注目してクラスを作るタイプの分解を意味します。分析という言葉には初めから類似性と差異性が原理として組み込まれていたのです。

(出典)「思考の技術論 自分の頭で『正しく考える』」(鹿島茂)(注)ハットさんが一部太字にした。

 なお、少し脱線するようですが、「類似性」と「差異性」は、議論をするときにも注目して欲しいポイントでもあります。議論の達人として恐れられている教育学者・宇佐美氏も次のように言っています。

 議論の内容で肝心なのは、<異同>の見定めである。つまり、何と何は同じなのか、違うのか、違うとすれば、どう違うのかの見定めである。(中略)例えば、自分の主張と相手の主張を比べ、どこが同じで、どこが、どのように異なるのかを見分ける力がなければ、議論はできない。(中略)
 物事の境界線を見きわめない人間は議論に強くはなり得ない。(中略)異同関係について明確な基準を持たなければならないのである。(中略)

(出典)「議論は、なぜいるのか」(宇佐美寛)(注)ハットさんが一部太字にした。

 以上、この項では、比較があるから考えること、さらに比較では「類似」と「差異」に意識すること、の2点を説明しました。最後にしつこいようですが、「比較」について復習しておく意味で、後氏の次の文章を紹介してこの項を終わりにします。

 二つ以上の異なる事象を比較・観察し、その間の類似と相違を見出してそれをくわしく検討・推論することにより、われわれは、ある程度まで条件を純化し、そこに何らかの要因と結果の間の法則性を発見することができる。
 一つの事象を単独でいくら細かく分けて検討してもできなかったことが、二つ以上の事象を比較検討することにより、そのなかに含まれる法則性や諸要素間の相互作用や重要性の程度を判別することができるのである。

(出典)『意思決定のための「分析」の技術』(後正武)(注)ハットさんが一部太字にした。

分析で「比較をする」際に留意すべき4つの事項

 ここからは、分析で「比較をする」際に留意すべき4つの事項をご紹介させてください。
①漠然と比較するのではなく、どんな状況・条件のもとで比較しているのかを明確に意識すること
②要素ごとに同じ条件のもとで比較すること(アップル・ツー・アップルによる比較)
③時系列で比較すること(トレンド・歴史的流れで比較する)
④切れのある「軸」で比較すること

以下で順にご説明します。

漠然と比較するのではなく、どんな状況・条件のもとで比較しているのかを明確に意識すること

 「比較があるから考える」というのはそのとおりなのですが、何でもかんでもただ比較すればいい、というものではありません。そうは言っても日常の場面では、知らず知らずにあまり深く考えずに比較してしまうことはよくあります。例えば、後氏が指摘している下記のことも頷けます。

 よく、事業の体質、会社の現状を論じることなく、「売上高に対する開発費の妥当なレベルはいかほどか」とか、生産体制の差、製品カテゴリーの異動、基本戦略の方向の違いを無視して、「業界のなかで、わが社の開発費は少なすぎる」などという議論がされる場合があるが、経営判断のために意味ある比較とは何かをよく考えなければならない。

(出典)『意思決定のための「分析」の技術』(後正武)(注)ハットさんが一部太字にした。

 後氏が「事業の体質、会社の現状を論じることなく」比較することに意味がないと指摘しているとおり、どのような状況・条件の異同のなかでそれを比較すると意味があるのかを常に意識しておくことが大事です。たまに基本的な状況・条件の違いを無視して「〇〇ではこうしていますよ、だからうちもこうすべきですよ」という議論をする人がいます。しかしながら、そういう論法とか考え方に毒されて粗雑な比較をするクセをつけてはいけません。私はときおり教育学者・宇佐美氏の次の文章を必ず思い出すようにして自分を戒めています。

 「アメリカでは、こういう作文の仕方を教えている。だから、彼らは自分の意見を論理的に表現できるようになる。」いわゆる「出羽守」である。(◯◯国では…と、ある外国を価値基準にする。)私は、こういう「出羽守」の言を聞かされると、憮然(ぶぜん)として「豊前守」になる。(中略)
(くり返し言うが、人によりけりである。「出羽守」が総体を言う粗大な論法なので、私も総体で言わざるを得ない。)
 そして、いつでも「出羽守」自身の書く日本語の文章は、論理的レベルでは首をかしげたくなる体のものである。(惚れすぎると頭が悪くなるのであろう。)

(出典)「論理を教える」(宇佐美寛)(注)ハットさんが一部太字にした。

 要すれば、どんな状況・条件の異同のもとで比較しているのかを明確に意識していない比較なんて粗雑すぎて使えないということです。くれぐれも「出羽守」にはならないように注意しましょう。

要素ごとに同じ条件のもとで比較する(アップル・ツー・アップルによる比較)

 どのような状況・条件の異同のなかでそれを比較すると意味があるのかを常に意識しておくことが大事と書きましたが、具体的にどのように比較すればいいのでしょうか。それは、「アップル・ツー・アップル」になるように比較すればいいのです。要するに、同じ条件のもとで同じ要素ごとに比較しろということです。ただし、ここで注意して欲しいことがあります。どんな時も種類の異なるものを比較するな、つまりアップル・ツー・オレンジの比較がダメだ、と言っているわけではありません。ぼんやりと大きさだけを比較しているときに自動車と船とを比較しても意味はないのですが、要素ごとに分解して、例えば燃料1リットル消費当たりの貨物運搬量という要素で自動車と船を比較することはアップル・ツー・オレンジではなくてアップル・ツー・アップルの比較になっています。このあたりのことを後氏がとても分かりやすい説明をしていますので紹介しておきます。

アップル・ツー・アップルを考える
 比較をする際のまず第一の要件は、「意味ある比較ができるか否か」である。同じリンゴ同士なら大きさ・色・形・味などを対等な条件で比較し、優劣をつけられようが、リンゴとミカンを比較しても意味がない。英語では、それはアップル・ツー・オレンジだから比較できない、という表現をする。
 もっとも、家計の立場から値段を比較して安いほうをおやつにしようとか、ダイエットのためにカロリーと栄養素を比較するとかであれば話は別である。つまり、「共通の目的」を持って、それに合った「同一の指標(例えばカロリー)を用いて比較するのであれば、表面上は異質のものでも共通の尺度で比較できるから、アップル・ツー・アップルの比較と言える。
 つまり、比較をする際には、
①できるだけ同じものを比較すること
②異なるものを比較するときは、意味がありかつ比較できる指標を探すこと
③似たもの同士を比較する場合も、同じ要素と異なる要素を正しく見分け、異なる部分の影響を勘案しつつ合理的な比較を心がけること
の三点が肝要である。
(中略)何の目的で比較するかと言う明確な自覚があれば、また、差異を全体として漠然と見るのでなく、要素に分けて一つひとつ比較し(要素のレベルならばアップル・ツー・アップルが容易になる)検討するという姿勢を失わないならば、比較はあらゆるソフトな分野においても可能であり、有効である。(以下略)

(出典)『意思決定のための「分析」の技術』(後正武)(注)ハットさんが一部太字にした。

 以上が留意点の2つ目、要素ごとに同じ条件のもと(アップル・ツー・アップル)で比較するということの説明でした。

時系列で比較する(トレンド・歴史的流れで比較する)

 先ほど説明したアップル・ツー・アップルで比較するというのは一時点で比較する際に、比較対象の要素を揃えましょうという留意点でした。これから説明するのは、何を比較するにしても時間軸の幅の中で考えましょうという留意点です。どんなものでもいきなり今の状態があるわけではなく必ず時の経過を経て今の状態に至った経緯・背景があります。ですから、時系列(トレンド・歴史的流れ)で比較することはとても重要なことです。第10回目の記事(「実態を問う質問(背景を問う)」)でも説明したように、起点を考え、時の流れの中で比較することによって、漠然と比較していただけでは気がつかなかったことに気がつく可能性が格段に高まります。
 例えば、健康診断をした場合の診断データも、単年度だけ見ていても気がつかなかったことが何年間かの推移で比較し始めたとたん、ある数値が急に上昇しているとか下降しているなどの変化や異常値に気づきやすくなります。
 時系列で比較するというのはあまりに基本的な考え方なのでつい軽視してしまいがちなのですが、決してあなどれません。比較するときには「前年の同時期はどうでしたか?」とか「スタート段階からどんな経過をたどっていますか?」のような発想を瞬時に頭の中に思い起こすと、比較の対象がどんどん広がっていきます。これだけのことで比較の精度が向上するので、ぜひ習慣化することをお勧めします。

キレのある「軸」で比較すること

 最後の留意点は、キレのある「軸」で比較することです。比較するにしても「どんな軸(切り口)で比較するか」ということは重要です。
 アップル・ツー・アップルで比較することも、時系列で比較することも、ただ比較するだけなら簡単なのですが、比較の結果、それで何か意味あることを導けるのかと言われると、急に難易度が上がります。
 比較した結果として、本質的かつ構造的な特質・特徴が判明し、今後の対策にも役に立つことを目指して分析をしているわけですが、実際の実務では「どんな軸(切り口)」で比較すれば、本質的かつ構造的な特質・特徴が明らかになるのかは簡単に分からないことが多く、正直、試行錯誤の連続です。
 有名な「イシューから始めよ」の著者・安宅氏は分析設計の本質を次のように言っています。

分析の本質
(中略)「分析とは何か?」、ここで返ってくる答えは、(中略)「分析とは分けること」というのはよく聞く答えだが、「分けない分析」も実はたくさんある。(注)
(中略)
「分析とは何か?」
 僕の答えは「分析とは比較、すなわち比べること」というものだ。分析と言われるものに共通するのは、フェアに対象同士を比べ、その違いを見ることだ。(中略)優れた分析は、タテ軸、ヨコ軸の広がり、すなわち「比較」の軸が明確だ。そして、そのそれぞれの軸がイシューに答えを出すことに直結している。
 つまり、分析では適切な「比較の軸」がカギとなる。どのような軸で何と何を比較するとそのイシューに答えが出るのかを考える。これが絵コンテ作りの第一歩だ。定性的な分析であろうと定量的な分析であろうと、どのような軸で何と何を比べるのか、どのような条件の仕分けを行うのかこれを考えることが分析設計の本質だ。

(ハットさんの注)
なお安宅氏は「分けない分析」も実はたくさんあるとして具体例を挙げて説明しているがここでの引用は省略した。「分けない分析」の例として安宅氏が挙げた例が本当に分けない分析なのかは議論の分かれるところだが、その点についてはここでは深入りしない。

(出典)「イシューからはじめよ」(安宅和人)(注)ハットさんが一部太字にした。

 安宅氏が言っている「軸」というのは「切り口」と言っても同じ意味ことですが、いずれにしても第14回目の記事(分析における「全体の把握と絞り込み」)で引用したコンサルタントの高田氏の言葉にもあるとおり『「感度の良い切り口」を見つける単純な公式などない。トライ&エラーを繰り返しながら発見していくしかない』のです。それでも14回目の記事では、高田氏からの実戦でのアドバイスとして「一次分析をおこない、仮説を持って切り口を考える」という引用を紹介しました。
 ここでは平素の心構えという別の観点からのアドバイスを紹介します。またしてもフランス文学者・鹿島氏の著書からの一節です。少し長い引用になりますが大変参考になりますので、ぜひお読みください。

(中略)ただ、新たな問い(ハットさん注:安宅氏のいう「軸」と読み替えてください)を見つけるというのは、勘に頼る部分が大きいとはいえ、まったく学習不可能というのではありません。しばしば、刑事などは職業上の勘が働くといいますが、この勘というのは、実は経験の量によって生まれるものです。だれでも、経験の量を積んでいけば、おのずと勘が養われてくるのです。これはどの分野でもそうです。(中略)
 世間には、何か新しいことを理解しようとするときに、きまってゴルフのたとえを使う人がいるでしょう。(中略)こうした態度は決して間違いではないのです。(中略)なぜなら(中略)ゴルフでも、多少なりとも経験を積んで、構造的なものを把握する能力を獲得しているからです。この構造的な把握力というのが、勘と呼ばれるものにきわめて近い。(中略)
 同じような構造把握力は職業上の経験からも生まれます。職業を持っている限り、必ず専門が生まれます。コンビニやファミレスのバイトだろうと、段取りをつけてテキパキと事を進める方法を学ぶはずです。無秩序を秩序へと収斂していく一つの方法がそこにはあるのです。また、多少とも専門的な知識が必要とされる職業であれば、構造化や体系化という作業は誰でもやっていますから、その経験を生かすこともできます。
 ようするに、自分にとって未知のものに接するとき、既知のものと類似した構造がないかをまず探り、そこに「ある共通する型」が見つかったら、以前につちかった経験=勘を働かせてみることです。(中略)
〈複数の専門分野を持つ〉(中略)
 ところで、その見立て力(ハットさん注:構造把握力)を磨くには、複数の専門分野で方法論を学んだ方が望ましいから、専門を深めると同時に専門以外のものも勉強する必要がある。
 しかし、こういうと、私にはとうていそんな暇はない、専門分野はせいぜい一つで済ませたい。なにか、別の良い方法はないか、と尋ねる人がいます。
 こうした人にはこう答えるほかありません。問いを立てるのはコツがいる。だから、日ごろから、日常生活の中で、常住坐臥、問いを立てる訓練をしておくことだと。(以下略)

(出典)「勝つための論文の書き方」(鹿島茂)(注)ハットさんが一部太字にした。

 切れ味鋭い「軸」で比較するためには、仮説をもってトライ&エラーを繰り返すことはもちろん大事ですが、平素から専門以外の領域にも積極的に興味を持ち、構造把握力を日々鍛えておくことも大切です。

コーヒーブレイク

「思う」と「考える」はどう違うのか
 今日の記事のテーマの1つである「比較なくして思考なし」を理解するうえでとても参考になることを国語学者・大野晋氏が自著で書いています。「思う」と「考える」の違いにに触れて、「考える」の語源「…に勘(かんが)ふ」という言葉は「事柄を突き合わせてしらべる」という意味だというのです。「考える」という言葉は語源的にも「比較なくして思考なし」を想起させて感慨深いです。以下「日本語練習帳」(大野晋)からの紹介です。

 参考までに、「思う」に関しては何を思っても自由だし、その「思い」が論理的に間違っているかどうかを議論することにあまり意味はありませんが、「考え」については論理的な間違いかどうかを議論可能です。ついつい「思う」と「考える」を厳密に区別せずに使用していることも多いのですが、明確に区別を意識して使い分けるクセをつけると、自然と論理に敏感になります。

今回のまとめ

比較なくして思考なし。どんなことでも比較するクセをつける。
◆比較では「類似」と「差異」に意識すること。
◆分析で「比較をする」際に留意すべき4つの事項
①漠然と比較するのではなく、どんな状況・条件の下で比較しているのかを明確に意識すること
②要素ごとに同じ条件の下で比較すること(アップル・ツー・アップルによる比較)
③時系列で比較すること(トレンド・歴史的流れで比較する)
④キレのある「軸」で比較すること

おすすめ図書

「勝つための論文の書き方」(鹿島茂)

タイトルに「論文の書き方」とあるので、一見すると今回のテーマである「分析」とか「比較」と関係のないように思えますが、大いに関係する本です。
「比較」は思考の根本であるとの著者の意見はとても斬新で、私は本書を初めて読んだ時、目が開かれるような思いでした。今回の記事で本書から引用した言葉を多く紹介していることからも想像できるように私の考え方は本書から強い影響を受けています。本書は、もともとは自分の頭で考えるために問いを立てる行為を学ぶというコンセプトに基づき著者が模擬講義をするというスタイルで書かれています。「正しく考えること」についてあの手この手で読者を飽きさせることなく指導してくれます。
鹿島氏はこの本を「生きていくのが楽しくなるような論理的思考法」を教えるという発想のもとでで書いたそうですが、そういう意味において「分析」の推薦図書というよりも論理的思考法に関する推薦図書とした方が適切かもしれません。
なおどうでもいいことですが、本書のタイトルにある「勝つための」というのは編集者の発案で付けたタイトルとのことで、何に勝つためなのかは鹿島氏自身が謎だそうです。
いずれにしても、今回のテーマである「比較」を考えるうえでも「考えるということ」を真剣に整理する上でも本書をおすすめします。
ちなみに鹿島氏には『自分の頭で「正しく考える」思考の技術論』という素晴らしい大著もありますが、こちらはこのようなついでの形での紹介ではなく、改めて別の機会に取り上げます。

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ハットさん
ハットさん

どんな分野においても比較の対象を意識的に増やしていくと判断基準が確立していきます。そうすると自然とそれを他の分野でも応用できるようになり構造把握力が磨かれていきます。

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