今回は「仕事の文書では『~と思う』という表現は無条件で削除しろ」という話しをします
どんな仕事においても文書を書く機会は多いものです。その種類は日報や正式な報告書など様々ですが、どんな種類のものであれ、仕事の文書では「~と思う」という表現は無条件で削除しましょうというのが今回言いたいことです。
ところで「~と思う」という表現とは具体的にどんな記述か?
仕事の文書では「~と思う」という表現は無条件で削除しましょうと唐突に言われても、何のことやらピンとこないでしょう。そこでまず、仕事文で書く「~と思う」という表現としてどんな記述を想定しているのか、簡単な例でイメージを共有させてください。「~と思う」という表現として私がイメージしているのは次のような記述です。
<例>
◆会議は減らすべきだと思う。
◆A事業から撤退すべきだと思う。
◆この在庫は処分すべきだと思う。
私たちはちょっと油断すると上記のように「~と思う」というような表現で記述してしまうのですが、仕事文ではこの「~と思う」という表現を無条件で削除しましょうというのが今回私が言いたいことです。例えば、上記例で言えば次のように修正しましょうということです。
<修正案>
◆会議は減らすべきだと思う。 ➡ 会議は減らすべきだ。
◆A事業から撤退すべきだと思う。 ➡ A事業から撤退すべきだ。
◆この在庫は処分すべきだと思う。 ➡ この在庫は処分すべきだ。
でも、「『~と思う』という表現を削除したからってどうなるんですか?なんで削除しなければいけないのですか?」という素朴な疑問を抱く人もいるでしょう。この点を以下で具体的に説明します。
「~と思う」という表現を無条件で削除する理由
仕事文で「~と思う」という表現を無条件で削除しましょうと提案する理由を図でまとめると下記のとおりです。
「~と思う」という表現を使わない最大の理由は、この表現を無自覚に使うクセがつくと自分の思考がどんどん粗雑になるからです。仕事で何かを考える際には、「事実」「推測」「意見(=評価・判断)」の3つを明確に区別するよう常々意識すべきですが、実際にはこの3つの区別は容易ではありません。3つの区分でさえ容易ではないのに、さらに「~と思う」という表現まで持ち込むと、思考が一段と杜撰になってしまい、もう収拾がつかなくなります。このことを簡単な例で説明すると次のとおりです。
繰り返しになりますが、何かを議論するときに「事実」「推測」「意見(=評価・判断)」の3つを明確に区別しておくことが重要です。しかしながら、実行するとなると結構悩ましい場面が多く、議論が白熱していくうちにその区別が分からなくなってしまうことは往々にしてあります。だからこそ「空・雨・傘」というフレームワークを使用して議論をするわけです。例えば、「今の話しって、“空”のことを言っているの? それとも“雨”のこと?」のように確認をしながら議論を進めていきます(なお「空雨傘(紙)」フレームワークについては第50回記事(「空雨傘紙」の4つの要素で徹底的に考える)で取り上げました)。
ところで、そのことと仕事文で「~と思う」という表現を使用しないことは別問題だよねと考える人もいるかもしれません。しかし別問題ではありません。「~と思う」という表現は、「空(事実」と「雨(意見)」という区別を意識しようがしまいが使えるし、もっと言えば、論理的に考えていなくてもぼんやりとしたイメージがあるだけで使えるので、安易に「~と思う」と記述するクセがつくと、思考がどんどん粗雑になっていくのです。一方、言われた相手側は、そんな粗雑な思考で「思い」を語られても困ります。「思い」を聞かされても論理的な議論が出来ないからです。
だからこそ、大前研一氏が訳出した下記本の記述のように、平素の何気ない行為においても自分の思考の厳密さを保つように意識すべきであり、その一環として仕事文で「~と思う」という表現を使ってはいけないのです。なお、第71回記事(報告書などを書く際のタイトルや見出しで「~について」という言葉を使わないこと)も発想は同じです。
真の問題解決者は単に手法を覚えるだけではなく、平素の態度、生きざま、簡単な人との対話、などのすべてにそれが反映されていなくてはならない。あたかも茶人の一挙手一投足にその精神が表れるように。
(出典)「戦略思考学 創造的問題解決の手法」ハーベイ・ブライトマン、大前研一訳
ちなみに議論の論理的緻密さを徹底するということに関しては、教育学者の宇佐美寛千葉大名誉教授の主張は厳格そのものです。宇佐美氏は文章の書き方の指南本の中で次のように書いています。
(文書では)必要な事柄を述べるべきなのであり、筆者の心理を書き表わすべきではない。さきの作文例でいえば、「読んで感じたことは・・・」・「・・・と思う」のような、筆者の頭の働きぐあいを示す語句は事柄を明確な秩序において述べるのには妨げになるばかりである。思ったり感じたりした事柄だけを書けばいいのである。「思った」・「感じた」という働きは書いてはならない。
(出典)「新版論理的思考 論説文の読み書きにおいて」宇佐美寛
◆「・・・と思う(考える、感じる)」の類いの心理語は追放する。
(出典)「私の作文教育」宇佐美寛(注)ハットさんが一部太字にした。
◆他方、現今の学生の文章は、日常の口頭語(特にマス・メディアにおける口頭語)の不明確さ・混乱の症状に感染している所が多い。次の例である。
1.「・・・ではないかなと思う。」・・・そんなに自信が無いことなら書くべきではない。
2.「・・・という方向でやっていきたいなと思う。」・・・これは、決然・断固たる意志を示す文体ではない。こんな軟弱な、なよなよした態度を他人の目にさらすべきではない。甘えるな。「・・・をやる。」と簡単に言い切れ。意志の力強さを見せよ。
3.「・・・をすればいいのかなと思う。」・・・読者に、疑問を共有してもらいたいのか。それならば、 まさに疑問である点を説明しなければならない。
ところが、前後の文脈は疑問含みではない。「私は・・・をするべきだ。」と書くべきなのだ。自分の価値判断・意志決定は、端的に力強く言え。そうでなければ、無責任である。信用されない。(以下略)
(中略)書くべきは意見なのであって、「感じた」などという感情的なものではないはずである。
(出典)「作文の論理 『わかる文章』の仕組み」宇佐美寛
宇佐美氏の「『・・・と思う(考える、感じる)』の類いの心理語は追放する」という意見には私も基本的に賛成ですが、私が宇佐美氏の意見と異なるのは、私は「~と考える」という記述はむしろ必要との認識を持っています。この点は「コーヒーブレイク」に書きました。
今回のまとめ
◆仕事の文書では「~と思う」という表現は無条件で削除しろ!
おすすめ図書
文章指南本といえば必ずと言っていいほど紹介されるような有名な本で、第19回目の記事(センテンス(文)を分かりやすくする4つのコツ)でも強力にお勧めしました。今回の記事(「~と思う」は無条件で削除せよ)に関連していうと、本書の中で書かれている第6章「はっきり言い切る姿勢」をぜひ読んで欲しくて改めて推薦する次第です。
ここではそのさわり部分だけ紹介させてください(長い引用になりますがご容赦ください)。
(<はっきり言い切る>ことに関連して、木下是雄氏はまず理論物理学者レゲットのエッセイを次のように紹介します)
(出典)「理科系の作文技術」(木下是雄)
日本人は、はっきりしすぎた言い方、断定的な言い方を避けようとする傾向が非常に強い。たぶん、「ほかにも可能性があることを無視して自分の意見を読者におしつけるのは図々しい」という遠慮ぶかい考え方のためだろう。(中略)
著者が、自説のほかにもいくつかの考えがありうることを斟酌して、ぼかしたかたちで自分の見解を述べたとすると、それを読んだ欧米の読者は、著者の考えは不明確で支離滅裂だと思うだけだろう。
だから、いくらか不自然に思えても、できるかぎり明確な、断定的な言い方をしたほうがいい。自分の見解または結論に関してはっきりした、具体的な保留条件がある場合には、(必要に応じて脚注を使って)それを明瞭に述べるべきだ、そうでない場合には、主張の強さをやわらげるようなことをしてはいけない。日本人が使いたがる「デアロウ」、「ト言ッテヨイノデハナイカト思ワレル」、「ト見テモヨイ」等々の句を英語に翻訳することはまず見込みがない。(以下略)
上記レゲット氏の日本人が断定的な言い方を避けるという指摘に対して、木下氏は、自分にも<はっきり言い切る>ことに心理的抵抗があることを告白します。
論文を書くときに「ほかの可能性もあるのに、それを斟酌せずに自分の考えを断定的に述べる」ことにはいつも強い抵抗を感じる。英語の論文の場合にはデアルと書くし、日本語の論文でもこのごろはデアルと書くようにつとめているが、それは心の中で押し問答をしたあげくのことだ。ほんとうはデアロウ、ト考エラレルと含みを残した書き方をしたいのである。これは私のなかの日本的教養が抵抗するので、性根において私がまごうかたなく日本人であり、日本的感性を骨まで刻みこまれていることの証拠であろう。
(出典)「理科系の作文技術」(木下是雄)
上記のように心理的には断定的な言い方に抵抗を感じたとしても、それでも理科系の仕事の文書では<はっきり言い切る>べきだと木下氏は主張します。
明確な主張のすすめ
(出典)「理科系の作文技術」(木下是雄)
わたし自身の心情が、いま告白したとおりなのだが、理性的な判断として、私は、日本人は平均として自分の考えをもっと明確に言い切らなければならぬと考える。世の中には、ことに実務の面では、はっきりものを言わなければならない場面がたくさんある。そういうときに相手をおもんぱかって敢えて自分の考えを明言せぬ言語習慣が、私たちの社会の風通しをわるくしている。また、科学(自然科学とかぎらず社会科学でも人文科学でも)は冷たく澄んだ世界で、そこではとことんまで突きつめた明確な表現が必要なのだが、私たちはとかく表現をぼかし、断言を避けて問題をあいまいにし、論争を不徹底にしてしまいがちである。(中略)
少なくとも会議の席では自分の考えを明確に主張する習慣を確立したいものである。 (中略)本書の対象である理科系の仕事の文書は、がんらい心情的要素をふくまず、政治的考慮とも無縁でもっぱら明快を旨とすべきものである。そこでは記述はあくまで正確であり、意見はできるかぎり明確かつ具体的であらねばならぬ。私は、理科系の仕事の文書に関するかぎり、日本語の文章にも、この章のはじめに紹介した英語の論文に関するレゲットの注意を、ほとんどそのまま準用すべきであると考える。
(中略) 私たちには(中略)容易なことでは<はっきり言い切る> 文章は書けないのである。しかし私たちは、こと理科系の仕事の文書に関するかぎり(中略)真正面から<はっきり言い切る>ことにしようではないか。
そのうえで、木下氏は、<はっきり言い切る>ことができるかどうかは覚悟の問題だと言います。
<はっきり言い切る>ための心得
(出典)「理科系の作文技術」(木下是雄)
私はこの章を「はっきり言い切る姿勢」と題した。事実、私がここまでに書いてきたのは、もっぱらものを書き、または言うときの姿勢 -精神的な態度、心のもち方- についての論議であって、具体的・文章技術的な裏打ちが欠けている。これは、私の考えでは、この問題に関するかぎり、必要なのは基本的な姿勢を確立することであって、<はっきり言い切る>ために特別な表現技術の勉強がいるわけではないからである。明確に言う、はっきり書く、ぼかした表現に逃げずに明言する-にはたしかに覚悟がいる。しかし、「そうすべきだ」という理由に得心がいき、踏ん切りがつきさえすれば、あとは実行力だけの問題であろう。
(中略)
この章を終るにあたって、「仕事の文書で何事かを書くのはステートすることだ。」というステートメントをよくかみしめ、念頭にとどめておくことを読者に勧めたい。ステートするときには当然、一句一句に責任がともなうのである。
上記で紹介した以外にも<はっきり言い切る>ために木下氏は、「~であろう」「~と思われる」「~と考えられる」「~と見てもよい」のような「当否の最終的な判断を相手にゆだねて自分の考えをぼかした言い方」、言い換えれば、「逃げの余地」を残した「あいまいな、責任回避的な表現」は避けるように提言しています。なおこれは蛇足ですが、木下氏自身が「~であろう」というあいまいな表現は避けるように提言しておきながらも、ご自身の文章では必ずしも徹底はされていません。例えば、上記でも紹介した「日本的感性を骨まで刻みこまれていることの証拠であろう」のように「推量」表現の「であろう」で文末を終わらせています。木下氏をしてもこうなので、<はっきり言い切る>ことの心理的なハードルの高さを感じます。だからこそ問答無用で「~と思う」「~であろう」「~と思われる」「~と考えられる」「~と見てもよい」を一切使用禁止にするくらいでちょうど良いと私は考えています。
いずれにしても、本書は文章指南本として定評のある参考書であり、まだお読みでない方はぜひお読みください。文章の書き方だけでなく思考そのものが変わります。
①「作文の論理: わかる文章の仕組み」(宇佐美寛)
②「私の作文教育」(宇佐美寛)
③「論理的思考―論説文の読み書きにおいて」(宇佐美寛)
著者の宇佐美氏は千葉大名誉教授で教育界ではその名を知らない人はいないほど有名な論争の達人です。その宇佐美氏が書いた文章指南本が上記です。先に紹介した「理科系の作文技術」に共通する理屈っぽい本ですが、宇佐美氏の本の方が理屈の厳密さでは遥かに上です。読んでいると、果たしてここまでの論理的厳格さが必要なのだろうかとの念を抱くことも正直ありますが、普段やすきに流れてしまう自分を戒めるためにはこれくらい緻密に考えるクセをつけた方がいいのかもしれません。
宇佐美氏の本は独特の説明スタイルなので、宇佐美氏の過去の著作を読んで慣れていないと最初は戸惑うかもしれません。そういう意味で万人に受ける本ではありませんが、文の書き方だけではなくものの考え方も学べます。議論の論理的厳格さ・緻密さとはこういうことを言うのかと実感させてくれる本です。それをイメージしてもらうために一つだけ実例を紹介します。
宇佐美氏は、例えば「前おきをやめよう」という章の説明として、ある本に書かれた最初の三文、すなわち、次の文章
「1冊の本は、その本が出版された時代の文化的所産である。また、それぞれの本は、その時代の歴史的課題を背負って生まれるといえよう。1980年代の幕開けの年に出版されたこの本も、その歴史的必然性を担って生まれてきた。」
を示したうえで、この書き方の問題点を次のように指摘します。
私には、このような文章は全然理解できない。わずかに三つの文という小さい範囲なのに次のように多くの重大な疑問があるからである。
1 .本というものが文化的所産であるのは、あまりにも当り前である。本は自然に地面から生えてくるものではない。また、本能によって出来るものでもない。(だから、サルやイヌには本は出来ない。)音楽や美術が文化的所産であるのと同様である。こんな当り前のことをなぜ書くのか。
2 .「また、それぞれの本は、その時代の歴史的課題を背負って生まれるといえよう。」 ・・・「・・・といえよう。」などと書くのは、よほど確信が無い想像なのだろう。こんな文章を書く人は、本屋で棚を一とおり眺めてもらいたい。全ての本が「その時代の歴史的課題を背負って生まれる」などと言えるか。例えば、『子犬の飼い方』や『マージャンに強くなるには』などという本は一体どういう歴史的課題を背負っているのだろうか。また、本屋へ行くのが面倒ならば、新聞の本の広告欄を見ればいい。手元の『朝日新聞』(1997年9月21日)には、ある出版社が 『白き乳房』『新妻の疼き』『熟女と人妻』という三冊の本の広告を出している。いずれも写真がたくさん出ている本らしい。「めくるめく官能の世界」などという字もある広告である。大体どんな本か想像がつく。そこで問う。この三冊は、一体どんな歴史的課題を背負っているのか。3 .「歴史的課題」を言う第二文にすぐ続く第三文は、「…この本も、その歴史的必然性を担って生まれてきた。」である。つまり、「それぞれの本は、…歴史的課題を背負って生まれる」 → 「この本も、その歴史的必然性を担って生まれてきた。」という論法である。
(出典)「作文の論理 「わかる文章」の仕組み」宇佐美寛
上記の引用で「も」に傍点をつけた。注目していただきたい。 第二文は「それぞれの本」と言い、全ての本について述べた。 第三文は「この本も…と言う。つまり、<この本も、他の全ての本と同じく>という形式である。
「歴史的課題」を言う第二文を受け、それに続く第三文が「この本も、その歴史的必然性を・・・」と言う。この「訳者序」の筆者たちは、「歴史的課題」と「歴史的必然性」とは同じ意味だと考えているのである。そう考えるのは正しいか。
「必然性」とは何か。「必ずそうなる(はずの)性質」(『新明解 国語辞典・第四版』)である。例えば、明日も太陽は東に昇る。これは必然である。
このように必ずそうなるはずの事柄が、なぜ「課題」なのか。 太陽が東に昇るのは、そうなるように努力すべき「課題」なのか。
要するに、必然性であるものは、課題であるはずがない。そうなるに決まっているもの、それ以外ではあり得ないものを努力の目標とすることは出来ない。必然ではなく、努力によって変えられるからこそ、課題なのである。
わずか三つの文(センテンス)の範囲でも、疑問は他にも数多くある。(粗く考えても、あと五つはある。)(以下略)
こんな感じで文章の書き方の指南がされているので、読者によっては拒絶反応を示して読む気が起きないかもしれません。それでも、これほどまでに考えることの緻密さを教えてくれる本は貴重です。今回ご紹介した本はどれを読んでもトーンは同じなので、まずはどれか1冊だけでもお試しください。
私は、部下が書いてきたクライアント向けの文書のドラフトに「~と思う」という表現があれば片っ端から削除していきます。そのうえで、論理構成が妥当かどうかを読み直すことにしています。第71回目記事(報告書などを書く際のタイトルや見出しで「~について」という言葉を使わないこと)の方法と併せてぜひお勧めします。