今回は「正解探しをする悪い習慣は捨て去ろう」という話しをします。
学生の頃は誰しも経験のあることですが、専攻している教科について、たいていの場合なにがしかの試験があります。試験があれば当然ですが、試験問題に対する正解も存在します。しかし社会人になって痛感するのですが、世の中で直面するほとんどの問題については正解がありません。したがって、本記事では「正解を求めて何かの文献などを探す」とか「記憶を頼りに正解を思い出す」といった悪い癖は早い段階で捨て去り、その代わりに「前提条件を色々と想定して選択肢をひねり出す」という考え方を徹底しましょうと提案したいのです。
今回の記事で伝えたいことを先に要約すると…
今回の記事で言いたいことはシンプルです。要約すると次のようになります。

今回の記事で言いたいことの骨子は上記のとおりです。以下では私の考えを補足したり、読んで欲しい文献の引用を紹介しますが、時間がない人はここで読むのを止めても何ら問題ありません。
正解探しの習慣が抜けない背景
今回の記事では「社会人になったら正解探しをするような思考態度はやめようね」と言いたいのですが、実際にはそんなに簡単なことではありません。なぜなら学生の頃から正解探しをするという訓練を何度も何度も繰り返した結果、条件反射的に正解探しをする癖が身についてしまっているからです。この点について大前研一氏なども下記のように書いています。3冊の本から紹介します。
覚えさせる教育の限界
(出典)「考える技術」大前研一(注)ハットさんが一部太字にした。
(中略)
今の時代に何よりも必要なのは、今学校で行われているような、答えを出させる教育、覚えさせる教育ではなく、「どうして?」と考えることを学ばせる教育なのだ。
(中略)
学校に行ったアカデミックスマートは、やはり答えを求めてしまう。「答えはない」と言っているのに、「答えは何ですか?」と聞く。学校秀才にかぎらず、日本の学校に通っている子どもは皆同じだ。(中略)
この手の人間は、世の中に出てから何の役にも立たない。答えを与えられないと何もできないし、答えのない状況になったらパニックを起こしてしまうからだ。
山口:(中略)多くの人は「考える」という行為を「正解を出す」という行為だと思っていますね。義務教育の過程で「正解を出す」という競争を徹底的にやらされる一方で、「考える」ということをまったく教わっていないからだと思いますが。
(出典)「知的生産のセンス」楠木健、山口周(注)ハットさんが一部太字にした。
(中略)
数学の問題や歴史の年号を聞くような問題については確かに正解があります。しかし、私たちが向き合う問題の多くには正解はないわけですね。ここで「考える=正解を出す」だと思っていると、思考停止してしまって動けなくなってしまう。日本では受験のテクニックとして「出題者の意図している正解が何かを考えろ」といったことが教えられる。だから何かを問いかけると、つい「期待されている正解は何か?」を考えて、それを当てて褒められようとしてしまう。
(中略)
日本の受験エリートはつい「出題者が意図している正解は何か?」を勘繰ってしまう。これは別に今に始まった話ではなく、日本人に通底する一種のモードのような気がします。
日本人の「正解主義」は学校教育にある
(出典)「すごい壁打ち」石川明(注)ハットさんが一部太字にした。
長らく学校教育では、「正解」があり、それにいかに早く正確に到達できるかが評価されてきました。それでも今、社会人の多くが実感しているのは、「正解がわからない」領域が増えているという現実ではないでしょうか。
確かに、最近の学校教育は「正解のない問いを探究する」方向に変わってきています。しかし、学校の入試制度をはじめとして、まだまだ「正解主義」は根強く残っています。
ちなみにかなり古い本で恐縮ですが、堺屋太一氏は「組織の盛衰」という有名な本の中で試験(受験)の弊害について次のように書いています。
「試験」とは何か
(出典)「組織の盛衰 何が企業の命運を決めるのか」堺屋太一(注)ハットさんが一部太字にした。
では、試験とは何ものだろうか。それには二つの特徴がある。第一は答えのない問題が出ないこと、「正解=答えナシ」という問題はまずあり得ない。つまり、試験とは、出題者が持っている答えを当て合いするゲームなのだ。数学には「存在論」というのがあって、この問題に答えがあるかないかを発見するのが非常に大きなジャンルになっているが、入学試験にはそんな高等数学は登場しない。本来、答えのない問題でも、教科書その他で答えを作って出題する。例えば歴史の問題などには、答えがまだ分からない問題も多いが、教科書などで一定の答えを決めて出題する。従って、記憶力を働かせ注意深く出題者の意図を探れば、出題者の隠している答えをいい当てることができるのである。
しかし、現実の世の中の問題というのは、九割まで答えがあるかないか分からない。技術開発にしろ経営刷新にしろ、新規市場の開拓や経費の削減にしろ、やって見るまでは正解があるのかないのか分からない。ところが、試験が上手で一流大学に入った人は、その成功体験から答えがあるかないか分からない問題にはチャレンジしたがらない。答えがあると分かっている問題だけを取り上げようとする傾向が強いのである。
第二の試験の特徴は、易しい問題、自分が答えやすい問題から解いた者が好成績を上げることである。十の問題があればまず全部一読して解きやすい問題から順番に解答して、八題正解すると八十点取れる。難しい問題に最初にチャレンジして、一題解いたときに時間が切れたら十点だ。日本の教育では、まずこの受験技術を教える。
この本は30年以上も前に出版された本なのですが、堺屋太一氏の指摘は現在でも頷ける点が多いです。
なお、堺屋太一氏が言う試験の第二の特徴、すなわち「易しい問題、自分が答えやすい問題から解」くということに関しては悪いことばかりではありません。優先順位をつけることの重要性を学ぶという点ではメリットも大きいと考えます。段取りを考えるうえでは優先順位はとても大切なことなのです。このことに関しては第26回記事(社会を生き抜く「段取り力」)で説明しています。ご関心があればどうぞ。
正解探しの代わりに何をすればいいのか?
上記で紹介した石川氏の記述のように「最近の学校教育は『正解のない問いを探究する』方向に変わってきてい」るにしても、具体的にどんな思考態度に変えればいいのでしょうか。この点に関しては、大前研一氏が著書で書いているマッキンゼーの採用試験が大いに参考になります。少し長くて恐縮なのですが、ぜひここで紹介させてください。
知識ではなく「思考パターン」をテストする
(出典)「考える技術」大前研一(注)ハットさんが一部太字にした。
日本では高校や大学の受験にしろ入社試験にしろ、テストというと知識を試すようなものばかりだが、それでは仕事のできる人間かどうかを判断する材料にはならない。
たとえばマッキンゼーでは、二十数年前に「知識は問わず、考え方のパターンを試す」採用試験を開発した。その内容は、受験者にある証拠を示し、「あなたはこの証拠からどういう結論を出しますか」「これだけの証拠では、まだ結論は出せませんか」と問う、といったものだ。十分すぎるほどの証拠を見せないと結論を出せない人間や、ちょっとしか証拠がないのに結論だと思い込んでしまう人間を見極めるためのテストである。知識の有無よりも、どのように結論を導き出すか。その思考方法が身についているほうが、コンサルタントになってからうまくいく可能性は高い。知識ではなく、基本的な思考回路が問題なのだ。
(中略)
たとえば、次のような問題である。
(中略)
急に明日からタンザニアに半年間出張することになった。持っていけるのはリュックサック一個。あなたはリュックの中に何を詰めますか?
(中略)
こういうことを突然聞かれると、多くの場合、学校秀才型の人間はパニックにな る。「タンザニアってどこだっけ?」。これがわからないと、リュックに詰めるものも分からないのだ。
前提条件が言えるか
ところが、マッキンゼーに入ってうまくやっていける人間は、瞬時にこんな答え方をする。「すみません、私、タンザニアがどこにあるのかよくわかりません。でも、 たぶんアフリカで、暑いという前提でお答えすると……」というように、答えの前是をはっきりと言うのである。
このタイプは学校秀才型と違って、パニックになることはない。もしその前提が違うということがわかれば、前提を変えて答えることができるからだ。そして未開発地で高温多湿、いろいろな病原菌がいるという前提から、必要なものをどんどん連想していく。
かたやダメなタイプは、自分がふだん愛用しているようなものを頭に思い浮かべて、ランダムに答え始める。「辞書でしょ、水筒でしょ、それにパンとかお米とか ・・・・」。そのうち同じものを繰り返したり、現地でいくらでも買えるものまで言い始める。
「そんなに詰め込んだら重くなるし、だいたいそのうちの半分は現地で買えるよ」と言われると、ガクッとなってもう何も答えられない。一方答え方のうまい人間は「お金は持っていっていいという前提でしたら、現地で買えるものは置いていきます」と、自分で境界条件を言い始めるのである。
自分ではタンザニアの場所を知らなくても、「こういう前提で答えます」と言える人間は、「タンザニアは極寒の地にある」と言われれば「では、こうです」と答えを変えられる。前提が正しいかどうかは地図があればすぐに分かるのだから、別に知っていなくてもいい。タンザニアについての知識の有無はまったく問題ではないわけだ。さらに前提を変えて、「じつはこれはヨーロッパの真ん中の国だと言ったらどうなるの?」と聞いていくと、よりその人間の思考パターンがわかってくる。
マッキンゼーが頼まれる仕事なんて、いわば「明日、タンザニアに出張に行け」みたいなものばかりである。自分で簡単に答えられるような問題なら、なにも高いお金を払ってまで外部のコンサルタントに頼みはしないのだから。
前提があって結論があるという思考パターンの人間なら、どんなときにもパニックにならないし、前提が変わればまた違う結論を出せる。マッキンゼーにかぎらず、これからの世の中は、他の仕事でもこういうタイプのほうがうまくいくはずだ。(中略)
(中略)ネットでちょっと検索すれば分かるようなことは、何の価値もないから一切聞かない。何を知っているかではなく、知らないことを頼まれたときに、どういう思考回路をとるのかが本当に重要なことなのだ。
上記で大前研一氏は「自分で簡単に答えられるような問題なら、なにも高いお金を払ってまで外部のコンサルタントに頼みはしない」と書いていますが、今ならAIに質問すれば正確かつ迅速に回答を提示してくれます。そのため、AIに相談すれば事足りるような問題と回答ならクライアントはますます高いお金をコンサルタントに払うことはありません。だからこそ自分なりに考えるという思考態度を身につけることの方が意味があるのです。
ところで、身につけるべき思考態度とは、自分で前提条件を考え出し、その前提条件ごとに起こり得る事態を想定するということです。このことを大前研一氏は色々な著作の中で「常に『What、If…?』と考えよ」と提案しています。例えば次のような記述です。
常に「What、If…?」と考えよ
(出典)「実験!問題解決法」大前研一・斎藤顯一(注)ハットさんが一部太字にした。
PSA(ハットさん注:PSA=プロブレム・ソルビング・アプローチ=問題解決法)では「もし答えがあるとすれば、どういう範囲にあるのか、どういう感じなのか」と考えてみる。すなわち「What、If…?」という設問をするのだ。「もし状況がこうなったら、どのように考え(あるいは行動、反応し)たらよいか」ということである。言い換えれば「What、If…?」と考える癖を身につけることが、PSAの基本なのである。
ちなみに、「What、If…?」という思考については大前研一氏に有名な著作「企業参謀」に次の記述があります。ぜひこの機会にお読みいただきたくご紹介させてください。
(中略)代替案(ハットさん注:つまり選択肢)を探るときには、「What、If …?」という設問のしかたをするのが普通である。すなわち「もし状況がこうなったら、どのように考え(あるいは行動、 反応し)たらよいか?」ということである。
(出典)「企業参謀」大前研一(注)ハットさんが一部太字にした。
ところが、われわれは考えることに対して無精であったり、考えが及ばなかったりで、なかなか 「What、If…?」という考え方をしない。これは、物の考え方そのものに対する自信のなさに起因しているので、社会的背景によるものではないが、日本人が、特にこの「What、If…?」が不得手な背景として他に二つばかり要因があるのではないかと思う。
その一つは、われわれが今日まで中国や西欧の国から一○○○年以上にわたって文明を受け入れつづけてきたことによって「解答がすでに存在していることに慣れ切ってしまっている」のではないか、という点である。レディメードの答えがあれば、何もあれこれと思いをめぐらすことなくすむので、 「What、If・・・?」という設問はしなくてすむ。万一、わからないことがあって、What If?と首尾よくスタートしてみても、自分で考えはじめる前に外国に解があるかないかを見つけるだけですむ。したがって「What、If・・・?」の直後に「Where?」と短絡してしまいがちなのである。
もう一つの背景は、シャーマニズムの血筋をひくわが神道の影響である。この宗教の原始的な形態では、祭政上のことで、特に言霊とか心霊といったものを重視し、悪いことをなるべく考えまい、言うまい、とするようになってしまった。つまり「What、If・・・?」という発想を「考えるだけでも恐ろしいような悪いことが心に宿ると、それが本当に起こってしまうのではないか・・・・・・」という恐怖心から、なるべく避けて通るような“くせ”がついたのではないか、という推論を私はしているのである。したがって、明らかに二案あるような場合にも、両者を対等な土壌で扱うことを毛嫌いしてしまうのである。 先にも述べたように、これは、代替案(ハットさん注:つまり選択肢)を常に吟味しておくことを、その主たる武器とする戦略的思考家と対極なすものである。
結局のところまず第一に前提条件を考えることが大事なのですが、そうするためには想像力が問われます。また、リスク対策を考えるときにも言えることですが、「何年後に、どんな状況になって、何に対して、どんな影響があるんでしたっけ?」、すなわち「What、If・・・?」を具体的に考えるためには相当な経験値も必要です。とにかく普段から意識的に想像力を駆使する練習をしたり、地道に経験を重ねたり見聞を広めておくしか方法はありません。
【正解探しを捨て「What、If・・・?」で考えられるようになるまで何年くらいかかるか?】
記事本文の中にもあるように日本の場合、社会人になりたての頃は圧倒的に正解探しの癖が身についています。そのため、できる限り早くこのような思考態度を打破し、「What、If・・・?」で考えられるようになることが必要です。では「できる限り早く」という期間は具体的にどれくらいなのでしょうか。私は公認会計士として大手監査法人に34年間勤務しましたが、その時の経験に照らして言えば、一般的に5年くらいかかる印象です。会計士の場合、3年目でやっと正解探しの思考態度を打破するのですが、その頃に終了考査(私の頃は「三次試験」だった)という試験を受けるため、せっかく打破した正解探しの悪癖が復活してしまうのです。その後、前提条件と選択肢を考えるという思考態度に落ち着くまで2年くらいかかります。結局のところ合計で5年かかるイメージです。言えることは、日々努力を重ねて何年もかけなければいけないということです。
参考までに、大前研一氏ですら次のように書いています。
(中略)私はこれまでの人生で、自分の生き方の指針となるいくつかの言葉に出会ってきた。とりわけ強い影響を受けたのは、マサチューセッツ工科大学(MIT)の大学院に留学していたとき、1人の教授が発した言葉である。
(出典)「大前研一 洞察力の原点」大前研一(注)ハットさんが一部太字にした。
ある日、その教授は私を研究室に招き入れ、1つの課題を提示して、 私の考え方を聞きたいと言った。私が「図書館で調べてきます」と答えると、教授は「だめだ」と怒鳴り、こう続けた。
「この黒板を使って、自分で考えてみなさい。いまこの研究室にいる君と私がこの問題を解けなかったら、解ける者はほかにだれもいない。君も私も原理は知っている。いちばんうまくいきそうなやり方も心得てい る。よそを見する必要はない。一人で解いてみようじゃないか。チョークはここにあるよ」
(拙著『ボーダレス・ワールド』より)
私はもともと平均的な日本人にくらべると、自分の頭脳を実戦活用する意識は高く、物事をロジカルに考えるタイプだったと思う。それでも日本で学んでいた時代は、知識の詰め込みを重視し、答えは図書館にあると教える日本の学校教育に染まっていた部分があった。MITの教授はその態度を根本的に否定し、「答えは自分の頭で考えるものだ」と断言したのである。
教授の言葉が耳に届いた瞬間、私はとまどいを隠せなかった。しかし冷静に考えれば私の思いと一致する忠告である。だから私はこの言葉をしっかりと自分の思考回路に焼きつけた。言った側の教授には当たり前のアドバイスであったかもしれない。しかし受け止めた側の私にとっては、神の啓示にも等しく聞こえたのである。
実際、私は教授と2人で、分かっていること、分かっていないことを黒板に書き出し、証明しなければならないことを整理しながら議論していくうちに、思考が飛び、良いアイデアが出てくることを実感した。文献を調べることが必要になるとしても、まずは自分の力で問題を解決しようとすることがいかに大切か、私は教えられたのである。(中略)
このとき私がもし「図書館で調べたほうが早い」という考えに支配されたままだったら、私はその後、どんな人生を送っただろうか。(以下略)
大前研一氏ですら「知識の詰め込みを重視し、答えは図書館にあると教える日本の学校教育に染まっていた」し、調べるのではなく自分の頭で考えろと言う教授の言葉を神の啓示のように聞いたわけですから、私たちのような凡人はひたすら努力するしかありません。
ちなみに、私は2011年から大学院でも授業を担当しています。ワークショップスタイルの授業で毎回テーマごとにグループディスカッションをし、その結果を発表してもらうのですが、試験を課すことはありません。また、ある時から正解と称して学生さんに私が説明をしたり、逆に学生さんに対して正解を求めることもなくなりました。なぜなら「正解はない。答えは自分で考え出すもの」という思考態度を少しでも体感して欲しいからです。
今回のまとめ
◆「問い(問題)」に対して「正解」があると考える習慣(悪癖)は捨て去ろう。
◆「解」は探すものではなく、自分で考えるもの。
◆考える時には「What、If・・・?」思考が大事。
◆「What、If・・・?」思考とは、様々な前提条件をもとに選択肢を考えること

おすすめ図書
大前研一氏のあまりにも有名な本なので、本ブログの読者であればすでにお読みかもしれません。もともとは1975年と1977年に出版された2冊の本を1冊にまとめて新装版としたものですが、その新装版ですら出版されたのは1999年です。大前研一氏がこの本を最初に出版した年齢は32歳と34歳であり今となっては信じられませんが、とにかく相当古い本であることは確かです。しかし、どんなに古くとも「ものの考え方」は今でも大いに参考になります。第12回の記事(分析を行う際の考え方(総論))の中でも紹介したのですが、大前研一氏は同書の中で次のように書いています。
前作「企業参謀」において、うかつにも、私は「手法」と見誤られるものにかなりのページをさいた。私はそれを参謀の「道具」と呼び、実際その使い方を記述した。意図したものは、道具の使い方そのものではなく、道具を使って行うところのプロセスの記述とプロセスの奥にあるものの考え方の記述であった。
(出典)「[新装版]企業参謀」大前研一(注)ハットさんが一部太字にした。
数多くの読者からノウハウを公開してくれてありがとうと感謝された。ごく少数の読者は、ものの考え方の記述が非常に参考になった、と言ってくれた。本書は、この少数派の人々を対象としている。
また本の帯には次のような宣伝文句があります。
『手本と解答がない今、成功へのプロセスは自らが考えださなくてはならない。(中略)著者の最善解を導きだす思考法を全公開』
宣伝文句にある「最善解を導き出す思考法」は言い過ぎにしても、ものの考え方や思考態度は大いに参考になります。もし全文を読むのが面倒なら「参謀五戒」の項だけでもぜひお読みください。

第85回目記事(チョークの点から何を想像するか? - 物事の正解は一つだけではない)も今回の記事と同じような内容です。関心がある人は読んでくださいね。
