今回はクリエイティブな発想をしたいときに私が決まって思い出す本の一節を紹介します
世の中にはとてもクリエイティブな発想をする人がいて、そういう人と一緒に仕事をするとたくさんの刺激をもらえます。同時に、どうしたら自分もあんな風にクリエイティブな発想ができるようになるのだろうかと考えてしまうのですが、そんなときに私が必ず思い出す本があります。今日はその本からの一節を紹介させてください。
固定概念にとらわれないために私が肝に銘じていること
私自身がどれくらいクリエイティブな発想ができるかどうかはともかくとして、自由な発想するために私が気をつけていることがあります。それは固定概念にとらわれないことです。言い方を変えれば、物事の正解は一つだけではないことを常に意識することです。この点を意識するときに必ず思い返す本の一節があります。「チョークの点」という一節です。
●チョークの点
(出典)「頭にガツンと一撃」ロジャー・V・イーク、城山三郎訳
私が高校二年生のとき、国語の先生が黒板に上のような、小さなチョークの点をつけた。
そして、これは何か、と私たちに訊いた。
さて皆さんならどのように答えるでしょうか?少し考えてみてください。
「頭にガツンと一撃」という本には次のように書いてありました。全文を紹介します。
●チョークの点
私が高校二年生のとき、国語の先生が黒板に上のような、小さなチョークの点をつけた。
そして、これは何か、と私たちに訊いた。数秒経ってから、誰かが言った。「黒板につけたチョークの点」。クラス全員が、この当然の言葉にほっとして、誰もそれ以上のことを言おうとはしなかった。「これは驚いたね」と先生は言った。「昨日、同じ問題を幼稚園の子供たちに出したら、このチョークの点はなんだかんだと、五十もの答が返ってきた。フクロウの眼、葉巻の吸い殻、電柱のてっぺん、星、小石、まるめた紙袋、腐った卵など。彼らは実に活発に想像力を働かせた」
小学校から高校までの十年間に、私たちは正解を求める方法を学んだ一方、ひとつの正解以外の答を求める能力を失っていた。物事を明確に捉える方法は学んだが、想像力の大部分を失ったのである。著名な教育者ニール・ポストマンが言ったように「子供たちは疑問符の姿で入学し、終止符の姿で卒業する」
(出典)「頭にガツンと一撃」ロジャー・V・イーク(城山三郎訳)(注)一部ハットさんが改行を追加した。
私がこの本を最初に読んだのは1992年で社会人5年目でしたが、本のタイトル「頭にガツンと一撃」のとおり衝撃を受けました。自分の思考がいかに硬直しているのか、柔軟な発想が欠如しているのかを痛感させられました。それ以来柔軟な発想を維持するために、上記「チョークの点」というエピソードを事あるごとに思い出すようにしています。
ところで、実は「チョークの点」という一節の前にはこんなことも書かれています。
物事の正解は一つだけではない
(出典)「頭にガツンと一撃」ロジャー・V・イーク、城山三郎訳(注)ハットさんが一部太字にした。
●思考の訓練
皆さんは、どこで考え方を学ぶか?その重要な場のひとつは、正規の学校教育である。教育によって、皆さんは何が適当で、何が不適当かを学ぶ。周囲の状況を明らかにするための質問の仕方を学ぶ。どこで情報を探すか、どんなアイデアに注意を払うか、そして、これらのアイデアをどう扱うかを学ぶ。要するに教育は、皆さんが世の中の仕組みを系統的に捉え理解するための多くの概念を授ける。(中略)
しかしながら、私たちの教育制度は、ひとつの正解を教えることに重点を置いている。平均的な人は、大学を卒業するまでに、二千六百余りのさまざまな形の試験を受けて(おり)(中略)「正解」指向が私たちの思考に深くしみついている。実際に正解がひとつしかない、ある種の数学の問題なら、それでいいだろう。困るのは、人生のたいていのことは数学のようではないということだ。人生には曖昧さがつきもので、正解はいくつもある ― すべて、求めるもの次第である。それなのに、もし正解がひとつしかない、と考えるなら、ひとつの答が見つかったとたんに、それ以上捜す努力をしなくなるだろう。
社会人になり仕事に専念するようになると「(試験と違って仕事では)正解は一つではない」というようなフレーズを耳にする機会は確かに多いのですが、そうは言うものの、試験慣れしてしまった人ほど「正解は一つで、それを素早く求めるべき」という思考の性癖が骨の髄まで染み込んでいます。試験だけではなくテレビのクイズ番組などでもそうなのですが、基本的に模範解答がありその解答にいかに近い答えを出すかという思考態度を捨て去るのは容易ではありません。だからこそ、「チョークの点」の一節を肝に銘じておく必要があるのです。
今回の記事で伝えたかったのは以上です。この記事を読んだからといってクリエイティブになるわけでもないし固定概念から解放されるわけでもありませんが、少なくとも意識しておくことによって思考態度は大きく変わってくると私は考えています。
参考:名著「失敗の本質」でも指摘されている学習における失敗要因
今回の記事では「チョークの点」の一節を紹介しました。あとは各自が思うところを工夫して今後に活かして欲しいと願っています。そういう意味でこれ以上何かを書いてもあまり意味がないかもしれませんが、以下ではお時間がある人の参考として、名著「失敗の本質」( ➡ 第74回目から第82回目の記事(全9回)で紹介した本です)で指摘されている日本軍の学習における失敗要因も紹介しておきます。自分の思考が型にハマっていると感じる方がその原因の一端を考えるうえでヒントになるはずです。
(中略)日本軍内部の各級の教育機関でもしだいに、与えられた目的を最も有効に遂行しうる方法をいかにして既存の手段群から選択するかという点に教育の重点が置かれるようになった。学生にとって、問題はたえず、教科書や教官から与えられるものであって、目的や目標自体を創造したり、変革することはほとんど求められなかったし、また許容もされなかった。
(出典)「失敗の本質 日本軍の組織論的研究」野中郁次郎他(注)ハットさんが一部太字にした。
ほとんどの場合に問題になるのは、方法であり、手段であった。ときとして、目的・目標ばかりでなく、方法・手段そのものも所与のものとされ、教官や各種の操典が指示するところを半ば機械的に暗記し、それを忠実に再現することが、最も評価され、奨励されさえした。いわば「模範解答」が用意され、その解答への近さが評価基準となっているのである。
上記引用と合わせ読んで欲しいのが堺屋太一氏の「組織の盛衰」( ➡ 第74回目の記事の「おすすめ図書」で紹介した本です)に書かれている次の一節です。本書は初版が1993年なので30年以上も前に書かれたものですが、今読んでも考えさせられる内容です。
「優秀な人材」の正体
(中略)では、その「優秀な人材」が、なぜ会社の存亡を救えなかったのか。
それは、日本の企業が好んで採用する「優秀な人材」が、一流大学を出た成績優秀者だ、という点にある。一流大学を優れた成績で卒業したことは、経営能力や商売上手を証明するものではない。頭が良いことを証明しているわけですらない。それによって証明されているのは、試験が上手であったということだけである。「試験」とは何か
(出典)「組織の盛衰 何が企業の命運を決めるのか」堺屋太一(注)ハットさんが一部太字にした。
では、試験とは何ものだろうか。それには二つの特徴がある。第一は答えのない問題が出ないこと、「正解=答えナシ」という問題はまずあり得ない。つまり、試験とは、出題者が持っている答えを当て合いするゲームなのだ。数学には「存在論」というのがあって、この問題に答えがあるかないかを発見するのが非常に大きなジャンルになっているが、入学試験にはそんな高等数学は登場しない。本来、答えのない問題でも、教科書その他で答えを作って出題する。例えば歴史の問題などには、答えがまだ分からない問題も多いが、教科書などで一定の答えを決めて出題する。従って、記憶力を働かせ注意深く出題者の意図を探れば、出題者の隠している答えをいい当てることができるのである。
しかし、現実の世の中の問題というのは、九割まで答えがあるかないか分からない。技術開発にしろ経営刷新にしろ、新規市場の開拓や経費の削減にしろ、やって見るまでは正解があるのかないのか分からない。ところが、試験が上手で一流大学に入った人は、その成功体験から答えがあるかないか分からない問題にはチャレンジしたがらない。答えがあると分かっている問題だけを取り上げようとする傾向が強いのである。
第二の試験の特徴は、易しい問題、自分が答えやすい問題から解いた者が好成績を上げることである。十の問題があればまず全部一読して解きやすい問題から順番に解答して、八題正解すると八十点取れる。難しい問題に最初にチャレンジして、一題解いたときに時間が切れたら十点だ。日本の教育では、まずこの受験技術を教える。
現在、日本の中学生や高校生の理科、数学、地理の成績が、国連の共通試験でも韓国、イスラエルと並んで優秀だといわれている。その大きな原因は、この受験技術を全員が知っていることにある。これに対してヨーロッパやアメリカでは、これを教えていないため問題を最初から解く生徒が非常に多い。日本の中学高校の試験成績の良さは、受験技術の徹底にあるといっても過言ではない。韓国もイスラエルも、最近それをやりだした台湾も、国連共通試験では日本と大体同じレベルになっている。
しかし、この易しい問題から解くことで成功を体験した人々は、社会人になってからも易しい問題から解こうとする。これが一流大学卒の成績優秀者、いわゆる「優秀な人材」である。
しかし、答えがあると分かっていて解き易そうな問題から手がける社員ばかりでは、絶対に分野違いの新規事業や飛躍的な改革はできないだろう。つまり、一流大学を優秀な成績で卒業した人材ばかりを採用し優遇することも、学歴重視の戦後的人材評価環境への過剰適応の一種なのだ。(以下略)
堺屋太一氏は、「試験が上手で一流大学に入った人」、いわゆる「優秀な人材」の特徴として「答えがあると分かっていて、解き易そうな問題から手がける傾向が強い」と指摘しています。また堺屋氏は、このような人材が直ちに問題となるわけではないが、少なくともこのような人材だけを優遇したら「絶対に分野違いの新規事業や飛躍的な改革はできないだろう」とも指摘しています。確かに堺屋氏の指摘のとおりなのですが、逆に言えば、「答えがあるかどうかわからなくても、難しい問題から手がける傾向が強い」人ばかりでも組織としては困ります。あくまでもバランスが重要なのです。この点も踏まえたうえで今回紹介した「チョークの点」のエピソードを思い起こしながら「物事の正解は一つだけではない」ということを意識したいと私は常々考えています。
今回のまとめ
◆私たちの思考には「正解志向」が深く染みついている。
◆それを脱却するために「物事の正解は一つだけではない」ことをいつも意識しておくべき。
◆だから「チョークの点」のエピソードを思い起こせ。
お勧め図書
①「頭にガツンと一撃」(ロジャー・フォン・イーク、城山 三郎翻訳)
②「眠れる心を一蹴り」(ロジャー・フォン・イーク)
③「創造力のスイッチを入れろ!」(ロジャー・フォン・イーク)
今回の記事本文で紹介したロジャー・フォン・イーク氏の著作として、「頭にガツンと一撃」とそれ以外の2冊、合わせて3冊の本をご紹介します。いずれも出版されてから随分と時間が経過しており、特に①「頭にガツンと一撃」は1984年に刊行されたので初版から40年も経過しています。そのため今となっては古本で入手するしかありませんが、ブックオフなどでもたまに見かけますので、もし見かけたらぜひお読みいただきたい本です。
3冊ともクリエイティブに思考するために頭のこわばりをほぐして柔軟になりましょうねということを意図した本ですが、やはり最初に出版された①「頭にガツンと一撃」が一番お勧めです。①と②はもともと企業向け研修テキストをベースにして書かれたこともあり、イラストありクイズ形式ありといった軽いタッチの本で、最後まで飽きずに楽しく読むことができます。
それに対して③は若干毛色が異なる内容となっています。古代ギリシャの哲学者・ヘラクレイトスの言葉・格言(著者はこれを「エピグラム」と呼ぶ)をヒントに創造力を養成しようとするものです。例えば、ヘラクレイトスの「円の終点は始点ともなりうる」というエピグラムから、同じ状況でも見方を変えれば考え方も変わるし、アイディアも変わるといったことを連想していきます。要すれば、ヘラクレイトスのエピグラムから色々連想して創造的に考えてみようよという本です。内容的には堅苦しくないのですが、問題はヘラクレイトスのエピグラムの中には何を言っているのかよく分からないものがあることです。例えば、「われわれは目覚めているあいだひとつの世界を共有するが、眠っているあいだはそれぞれが自分だけの世界に帰っていく」というエピグラムがあるのですが、このエピグラムからどのように創造的になればいいのか私には分かりませんでした。そのため、人によっては途中で読む気が無くなってしまうかもしれません。ただ著者はこの本を創造力養成のためだけでなく、瞑想のための書または啓示の書としての利用方法もあると書いていますから、読んですぐに意味が分からなくても気にする必要はないのかもしれません。
いずれにしても、上記3冊とも思考を揺さぶり固定概念を振り払うための良い刺激をもらえる本です。ぜひ機会があればお読みください。
正解は一つではない。実務ではこの点をいつも意識しておきたいです。