交渉力の源泉であるBATNAの有効性とその限界 #32

交渉術・説得術

今回は交渉の際に重要になるBATNAについて説明します

 誰でも日々なにがしかの交渉をしながら生活をしています。交渉では自分の要求をできる限り相手に受け入れて欲しいと願って進めることが多いはずですが、相手に自分の要求を受け入れさせる交渉力の源泉となるのはBATNAです。BATNAを持っていれば交渉を有利に進めることができます。逆に、BATNAを持ちえない交渉では、交渉が非常に難しいものになります。そのため、交渉では自分も相手もどんなBATNAをもって交渉に臨むかがとても重要になります。
 そこで今回の記事では、交渉におけるBATNAの重要性と作戦立案の心構え、またその限界についてお話しします。
 なお、交渉に関しては、第4回目の記事(交渉の7つの要素(ハーバード流交渉術))の中で交渉では考慮すべき7つの要素があると説明しました。BATNAはその7要素の中の一つの要素です。BATNAは交渉力の源泉なので、BATNAに関する作戦で失敗すると交渉そのものが失敗に終わる可能性があるくらい重要なものです。しかし、BATNAだけでも交渉はうまくいきません。交渉をうまく成功に導くためには交渉の7つの要素をバランスよく考えることが大事です。そのため、BATNAの話しに入る前に、まずは簡単に交渉の7要素について確認をさせてください。

(復習)ハーバード流交渉術の交渉の7要素とは?

 第4回目の記事(交渉の7つの要素(ハーバード流交渉術))で説明したとおりハーバード流交渉術では、交渉での作戦を考えるうえで重要な7つの要素があると考えています。この交渉の7要素はとても有益な考え方であり、その全体像を示すと次の図解のようになります。

 上記図を初めて見た方はこの図だけでは何のことやらよく分からないと思います。詳細は、第4回目の記事(交渉の7つの要素(ハーバード流交渉術))で説明していますので、そちらをご確認して欲しいのですが、一つだけここで補足すると、交渉の作戦を立てるうえで上記7要素の図はとても重要だということです。私はいつも小さなカードに書いたものを持ち歩いて、深刻な交渉時に作戦を立てる際には何度も見返しています。今後皆様が訴訟案件のようなその後の人生を大きく左右するような深刻で厳しい交渉をする場面では、上記7要素に基づいて作戦を練ることで必ず自分を救うことができます。ぜひ覚えておくことをお勧めします。

BATNAとは?

 交渉の7要素の全体像について確認したところで、今回のテーマであるBATNAについて改めてご説明します。BATNAとは簡単にいうと次のとおりです。

 この説明だけでは分かりにくいので簡単な例で補足します。例えば、あなたが自分の使っているPCを売却して現金化することを検討中だとします。本命の相手先はA店で、A店からは8万円で買い取ってくれるとの条件提示をもらいました。あなたとしたら、A店に対してできるだけ良い条件で買い取って欲しいと願っています。この場合のBATNAが何かを考えてみましょう。

 上記図のように、もしもA店以外にB店・C店・D店でも買い取りをしてくれるとなると、選択肢は広がります。A店との交渉が決裂しても最悪B店にて7万円で買い取ってもらえるし、D店はA店よりも良い条件を提示してくれているので、A店との交渉でもD店が呈示した9万円で買い取って欲しいという条件交渉も可能でしょう。このように交渉では、交渉決裂に備えた他の選択肢(代替案)をもっているかどうかが重要です。ここで、代替案の中で最も良い案のことをBATNAと言います。上記図でいえば、BATNAはD店に9万円で買い取ってもらう案になります。BATNAがあれば、A店との交渉に固執する必然性が乏しくなり、交渉決裂でも構わないという余裕をもって交渉に臨めます。
 これに対してBATNAを持っていないとどうなるでしょうか?それが次の図です。

 上記のケースではBATNAを持っていないので、交渉が決裂すると売却が一切できなくなります。何が何でもPCを売却して現金化しなければならない事情があると、どうしてもA店に買い取ってもらうしか選択肢はないので、あなたはA店が提示する条件を受け入れるしかありません。このようにBATNAを持ちえない交渉においては、足元を見られ自分の交渉力が著しく弱い状態で交渉をしなければならなくなります。

 このように交渉ではBATNAを持っているかどうかで交渉のゆくえが大きく変わってきます。私は今まで仕事で重要な交渉をするときには、自分のチームメンバーを集めて事前に何度も何度もブレストをして作戦を練りました。作戦会議でチームメンバーに意見を求めたのが「今回の交渉における我々のBATNAは何だろうか?」という点でした。交渉においては状況が刻々と変化していきますので、それに応じてBATNAも変化していきます。常に流動的な状況の中で、メンバー全員でとにかく知恵を絞ってBATNAを繰り返し繰り返し考えること。こうすることによって交渉をうまく合意に導ける可能性が高まります。また、うまく合意に至らない場合でも、ある程度の納得感をもって破談を受け入れることができるようになります。ぜひ皆さんも仕事で重大な交渉の場面に遭遇することになったらBATNAをとことん考え抜いて欲しいです。

ここまでのポイントをまとめると次のようになります。
①交渉前に有効なBATNAを入念に用意しておくこと。交渉においては状況が刻々と変化しそれに応じてBATNAも変化するので、BATNAは常に見直すこと

②逆に交渉相手もBATNAを持っているので、それが何かを具体的に想定して作戦を練ること

③さんざんBATNAについて考えた末に、相手の呈示案が自分のBATNAよりも劣る案だったら、交渉決裂もためらわないこと。

 以上BATNAを考えて作戦を練ることの重要性について説明しました。
 次の項では、有効なBATNAが見つからない場合の方策についてのアドバイスです。

現実の交渉では有効なBATNAが見つからない場合も多いが、その場合どうするか?

 交渉に関する指南本を読むと、多くの本では上記で説明したように「交渉前までに有効なBATNAを用意して交渉に臨めば、交渉では自分の要求がとおる可能性が高い」というような説明がなされています。確かに有効なBATNAが見つかればそのとおりです。しかしながら、問題は深刻な交渉になればなるほど現実ではそんなに簡単に有効なBATNAが見つからないということです。例えば、相手との交渉が決裂した場合の有効なBATNAが相手に対して訴訟を起こすことだとします。このBATNAがあるからといってこちらに交渉力があるとは言い切れません。交渉力があるというのは、究極的に言うと交渉を決裂させてもまったく構わない状態にあることですが、有効なBTANAを持っているからといって、交渉決裂で構わないと割り切れるかどうかは難しいところです。交渉が決裂して訴訟になればこちらも無傷ではいられないかもしれません。理論的には有効なBATNAを持っているとしても、現実的にそのBATNAを採用するには心理的にも経済的にもハードルが高いということも多々あるのです。

したがって、私は交渉にあたっては次のような心構えで臨んでいました。
①BATNAが簡単に見つかり、かつ、交渉決裂してもそのBATNAを容易に実行できる状況なら、BATNAを徹底的に考え抜く作戦を立てる

②有効なBATNAを持ちえない交渉、または理屈的には有効なBATNAを持ちえても実際に交渉決裂となった場合にはBATNAを実行することで、こちらもそれなりのダメージを負うことが予想されるのなら、BATNAで勝負することは避ける。むしろ交渉の7要素の「Communication(コミュニケーション)」「Relationship(関係性)」といった要素で勝負する。つまり、交渉に入るもっと上流段階でうまく立ち回り、早い段階から相手を味方にするような作戦を考える。

③上記②のような努力をしたが、それでもなお相手が高圧的にごり押ししてくる場合には、交渉決裂時に予想される最悪の事態を具体的に想定して、その最悪の結果を受け入れる覚悟を持って交渉すること(交渉決裂の結果予想される最悪の事態を恐れるあまり、交渉妥結にしがみつかないこと)

 なお、「交渉決裂時に予想される最悪の事態をあらかじめ想定し、それを受け入れえる覚悟を持つ」と言っても、それはかなり勇気がいります。現実社会で直面する深刻な交渉では、漠然とした不安に襲われ悶々と悩み、何日も眠れない夜が続きます。そのようなことを何度か乗り越えてきた経験者として言えるのは、次のようなことを意識して淡々と突き進むしかないということです。
◆交渉決裂の結果訪れる最悪の事態では自分は何を失うことになるのか? 職を失うことになるのか、財産を失うことになるのか、家族を失うことになるのか、名誉を失うことになるのか、命を失うことになるのか、など自分が失うことになるものを具体的に考えること
◆失うものを明確に意識したら最悪の事態ではそれを受け入れると決めること

 ここまで覚悟を決めると、第28回目の記事(有事では初動対応で勝負が決まる)の中の「最悪に備え落ちる場所をあらかじめ決めておき、最悪の場合には思い切って飛び降りる」の項でも書いたように、次のように考えることができるようになります。

①最悪に備えあらかじめ落ちる場所を決めておくこと
②最悪の場合には躊躇なくそこに飛び降りること
③何の勝算もなくただしがみついているだけだと結果として大けがをすること

 長い人生を歩んでいくうちには、誰でも一度くらい深刻で厳しい交渉の場面に遭遇することはあります。そんな時にぜひ今回の記事が参考になれば幸いです。

今回のまとめ

①交渉では有効なBATNAを持っていれば強気で臨むことができる(有効なBATNAがあれば交渉を決裂させても痛くもない)
②逆にBATNAを持っていない場合の交渉は弱気にならざるを得ない。(相手の言いなりにならざるをえない)
③BATNAを持ちえない交渉では、交渉決裂時に起きる最悪のシナリオを具体的に想定しそれを受け入れる覚悟を持って交渉することが重要
④ BATNAで勝負するよりも交渉の上流段階における「Communication(コミュニケーション)」「Relationship(関係性)」といった要素で勝負する方が安全で合意に至る可能性が高まること

【ご参考】交渉の7要素

メモ

◆交渉の7要素については第4回目の記事(交渉の7つの要素(ハーバード流交渉術))で説明していますので、興味ある方はどうぞご覧ください。
◆「交渉の7要素」のうち「Relationship」については第73回記事(有事の交渉に向けて平時に信頼関係の構築に努める)で取り上げています。よろしければこちらもどうぞ。

おすすめ図書

「BATNA 交渉のプロだけが知っている「奥の手」の作り方」(齋藤孝、射手矢好雄)

本書は、本のタイトルにもあるとおりBATNAについて分かりやすい事例で考え方を教えてくれます。ただし、第4回目の記事(交渉の7つの要素(ハーバード流交渉術))でおすすめ図書として挙げた「ふしぎとうまくいく交渉力のヒント」(齋藤孝氏と射手矢好雄氏の共著)で書かれている内容と大きな相違はないので、「ふしぎとうまくいく交渉力のヒント」をすでにお読みになった方は、こちらの本を改めて読む必要はないでしょう。しかし、「ふしぎとうまくいく交渉力のヒント」を読んでいない方でBATNAについて具体的な考え方を知りたい人にはお勧めの1冊です。

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「武器としての交渉思考」(瀧本哲史)

本書は、著者が大学で学生に教えていた「交渉の授業」を一冊に凝縮したものです。そのため、とても分かりやすく書かれていますし、BATNAについての説明も分かりやすいです。
交渉に関する本というと、とかく現実離れした学問的な本か、それとも著者の実体験をもとに生み出されたHow To ものが多いのですが、本書は、そういう本ではありません。交渉を単なる知識やビジネススキルとしてとらえるのではなく、自分が目指している目的を実現するために必要なアクションを起こすための思考法と認識しており、著者の熱い思いが込められています。交渉に関する本を今まであまり読んだことがない学生さんなどは、まずはこの本から学び始めるといいでしょう。著者の熱い思いに感化されるかもしれません。

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「ハーバード流交渉術」(ロジャー・フィッシャー、ウィリアム・ユーリー)

本書については、第4回目の記事(交渉の7つの要素(ハーバード流交渉術))でもおすすめ図書として挙げたので今回お勧めするのが2回目です。本書ではBATNAのことを「不調時対策案」と呼び、「不利な状況さえ乗り越える交渉術」という章を設けて詳細に説明しています。さすがBATNAの概念を最初に提案した本だけあってBATNAの作り方から活用の仕方まで丁寧に書いてあります。ただし、今回の記事でも説明したとおり、BATNAは万能ではありません。その点本書ではBATNAを過大評価しているきらいはありますが、それでもBATNAが交渉で大きな影響力をもつことは紛れもない事実であり本書で学ぶ価値はいささかも薄れておりません。

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「ハーバード流最後までブレない交渉術: 自分を見失わず、本当の望みをかなえる」(ウィリアム・ユーリー)

本書も第4回目の記事(交渉の7つの要素(ハーバード流交渉術))でおすすめ図書として挙げたので今回お勧めするのが2回目です。本書でBATNAに関して注目して欲しいのが、「インナー・バトナ」という概念です。BATNAについては本記事でも書いたとおりなのですが、著者たちはBATNAの限界も認識し、新たにインナー・バトナという概念を提唱しています。本記事ではインナー・バトナについては触れませんでしたが、さわり部分を下記で紹介しておきましょう。

『ハーバード流交渉術』のなかで、ロジャー・フィッシャーと私は、交渉で最も力を発揮するのはバトナ (BATNA)だと論じた。バトナとは、合意に達することができない場合に自分の利益をかなえる最善の代替案である。たとえば新しい求人について交渉するときのバトナは、ほかの求人を探すことだろう。契約をめぐる紛争でのバトナは、調停役に委ねるか裁判にもちこむかだ。 車の価格で合意できないときは、別のディーラーを探せばいい。バトナは、交渉がどうなっても、こちらにはすばらしい代替案があるという自信をもたらしてくれる。また、相手にあまり左右されずにこちらの要望をかなえることもできる。バトナは力と自信とともに自由な感覚を与えてくれる。
私は三五年にわたってバトナを見出す方法を教えてきたが、実際にはなかなか難しいようだ。「ほかの仕事が見つからない」「裁判にもちこめば時間もお金もかかる」といった具合に、自分の代替案に釈然としない、あるいは魅力を感じないからだ。人は手強そうな交渉相手に出会うと、なんとか力の均衡を保とうとあがくものだ。
だが外的状況がどうであれ、自分の内側から力を高めることはできる。交渉時には、 合意を得るための外部代替案を作る以前に、心のなかの代替案であるインナー・バトナを養っておこう。相手の出かたや動向には関係なく、たとえ何が起きようとも自分の心の奥底にある願望をかなえると無条件で自分自身に誓うこと、これがインナー・バトナだ。このインナー・バトナがあれば、自分のなかから嘘偽りのない力が湧いてくる。(以下省略)
(出典)「ハーバード流最後までブレない交渉術: 自分を見失わず、本当の望みをかなえる」(ウィリアム・ユーリー)

インナー・バトナに関する詳細は本書でご確認頂きたいのですが、私なりに著者の言うインナー・バトナを解釈すると、私が記事本文で書いた「覚悟」をより前向きにした感じの考え方です。
ある意味、本書は交渉の本というよりも人生の生き方・考え方についてアドバイスをするという様相も呈しています。著者の主張そのものは高尚で真っ当ですし、交渉の本をたくさん読んだ末にこの本に行きつくのはありです。ただし、交渉の実践的なテクニックを学ぶという観点でいきなりこの本から読み始めると違和感を感じるかもしれません。ただ、いずれにしても一読の価値があるのは確かです。

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ハットさん
ハットさん

BATNAを持ちえない状態で深刻な交渉をしなければならない場合は、本当に心折れることばかりですが、そういう時には「レジリエンス4C」(第2回目の記事参照)を思い浮かべて乗り越えるしかありません。

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