今回は「有事の交渉に向けて平時に信頼関係の構築に努める」という話しをします
人それぞれ立場の違いはあっても他人と何がしかの接点を持って生きている以上、誰かを相手に交渉するという行為は人生で必ず付きまといます。だから、交渉のスキルなしで生きていくよりも少しでも交渉スキルを高めておくことはとても重要なことです。今回は交渉に関するスキルの一部として、「有事の交渉に向けて平時に信頼関係の構築に努める」という話しをします。
交渉では「交渉の7要素」を念頭におき、大きな作戦を考えておくことが重要
今回のテーマである「有事の交渉に向けて平時に信頼関係の構築に努める」という話しに入る前に確認しておきたいことがあります。それは、どんな交渉をするにしても交渉では常に「交渉の7要素」を念頭におき、大きな作戦を考えておくことが重要だということです。
交渉には様々なレベルがあり難易度もまちまちです。比較的簡単な交渉なら事前に作戦を考える必要もありませんが、厄介な交渉になると事前の作戦なしで臨むのは危険です。戦術レベルの細かい作戦はともかくとして、少なくとも大きな作戦とか方向性は練っておいた方が交渉の成功率は高まります。この大きな作戦を考える際に役に立つのが「交渉の7要素」です。「交渉の7要素」を見ながらどの項目でどのようにアプローチをするのが得策なのかを考えておくことが大事です。
ところで、今回の記事で説明したいのは「交渉の7要素」でいうと「⑤ Relationship」の話しです(下記参照)。
なお、「交渉の7要素」については、すでに第4回目記事(交渉の7つの要素(ハーバード流交渉術))と第32回目記事(交渉力の源泉であるBATNAの有効性とその限界)で説明しています。復習したい方はそちらの記事もお読みください。
今回の記事で言いたいことを最初に要約すると…
今回の記事で伝えたいことはシンプルです。図にすると次のとおりです。
以下では補足説明をしますが、そもそも当たり前と言えば当たり前の内容なので、わざわざここで説明してもらう必要性を感じない人もいるでしょう。そのような人はここで読むのを止めても問題ありません。
「有事の交渉に向けて平時に信頼関係構築に努める」場合のポイント
有事の交渉に向けて平時に信頼関係構築に努めておくことが大事であることは頭では理解できますが、実践するとなるとやり切れていないことも多いと感じます。実践においては次のような点での難しさがあるからです。
①平和でお互いに余裕がある時期にじっくりと時間をかけて信頼関係を構築すること(長い期間をかけること)
②双方で歩みよりお互いにリスペクトの気持ちを持つこと(一方的な関係性ではないこと)
③誠実さをもって本音で議論できる関係を目指すこと(騙し打ちはしないこと)
順に説明します。
平和でお互いに余裕がある時期にじっくりと時間をかけて信頼関係を構築すること(長い期間をかけること)
難しい交渉というのはたいていの場合には有事に起きます。そして、その時には一刻を争う事態になっており、もはや悠長に信頼関係の構築から始めている余裕はありません。
だからこそ信頼関係というのは平時の余裕のある段階でじっくりと時間をかけて築いておくべきです。そんなことは言われなくても分かっているのですが、実際にするとなると、時間と手間とコストがかかるだけに容易ではありません。だから実践のハードルが上がるのです。それでも、交渉の本丸で難しい論点を巡ってバチバチ戦うことになった場合の難易度の高さを思えば、いくら時間と手間とコストをかけてでも関係構築をしていたお陰で助かったと思える場面もあるはずです。それゆえ、交渉が起きる前段階からこの相手とは「Relationship」に重点を置いて時間を掛けて準備しておくのか、それとも交渉が起きてから交渉の本丸でのやり取りに注力するのか、などの方向性を大雑把にでも決めておくことが大事です。
そして、もし「Relationship」に重点においた作戦を採用すると決めたのなら、相当な期間をかけてじっくりと取り組む覚悟が必要です。数回くらい会食や面談をしたくらいで関係構築が出来るようなら苦労は要りません。また、じっくりと時間を掛けさえすればいいのかというと、必ずしもそうではありません。時間を掛ければ掛けるほど相手の嫌な部分が気になるようになり、信頼関係どころか嫌悪感や敵対度合いが高まることすらあるのです。本当に難しいです。
双方で歩みよりお互いにリスペクトの気持ちを持つこと(一方的な関係性ではないこと)
信頼関係を構築する場合、双方で歩みよりお互いにリスペクトの気持ちを持つことも大事です。どちらかの力関係が上回り、上から目線で見下したような関係性では、いくら親しい関係性は構築できたとしても有事の交渉での助けにはなりません。また、一方的に接待や贈答などを重ねても同じことです。やはり双方向の努力が必要です。相手をリスペクトして誠実に付き合っていくしかありません。
誠実さをもって本音で議論できる関係を目指すこと(だまし打ちはしないこと)
どんなに信頼関係が構築できていたとしても、お互いの立場もありますから、交渉時には厳しいことも嫌なことも言わなければならない場面というのは出てきます。それでも、誠実に解決策を模索すること、だまし討ちのようなことはしないこと、お互いにこの信頼感があるからこそギリギリの交渉事も腹を割って議論できると考えています。このようなゴールを目指すとなると、誠実性など人間力も問われます。
国際紛争の交渉のようにやるかやられるかのようなギリギリの交渉に従事している人から見れば、上記考え方は「なんて生ぬるい考え方なんだ。甘ちゃんだね」との意見もあるかもしれません。でも、長期的かつ根本的に解決するための交渉では、その場しのぎの薄っぺらいテクニックでは通用しないと私は考えます。
今回のまとめ
◆有事の交渉に向けて平時段階から信頼関係の構築に努めておくこと。
◆ポイントは3つ。
①平和でお互いに余裕がある時期にじっくりと時間をかけて信頼関係を構築すること(長い期間をかけること)
②双方で歩みよりお互いにリスペクトの気持ちを持つこと(一方的な関係性ではないこと)
③誠実さをもって本音で議論できる関係を目指すこと(騙し打ちはしないこと)
おすすめ図書
本書は、江戸幕末に江戸城を無血開城に導いたあの有名な勝海舟の談話録です。気っ風のいい江戸っ子ぶりがよく伝わってくる語り口で、幕末維新の思い出・人物評・時局批判の数々が記されています。今回の記事本文との関連で言うと、特に下記記述をご紹介させてください。
外交の秘訣
○おれはこれまでずいぶん外交の難局に当たったが、しかし幸い一度も失敗はしなかったよ。外交については一つの秘訣があるのだ。
心は明鏡止水のごとし、ということは、若いときに習った剣術の極意だが、外交にもこの極意を、応用して、少しも誤らなかった。こういうふうに応接して、こういうふうに切り抜けようなど、あらかじめ見込みを立てておくのが世間のふうだけれども、これが一番わるいよ。
おれなどは、何にも考えたり、もくろんだりすることはせぬ。ただただ一切の思慮を捨ててしまって妄想や邪念が、霊智をくもらすことのないようにしておくばかりだ。すなわちいわゆる明鏡止水のように、心を磨ぎ澄ましておくばかりだ。こうしておくと、機に臨み変に応じて事に処する方策の浮びでること、あたかも影の形に従い、響きの声に応ずるがごとくなるものだ。外交の極意は正心誠意
(出典) 「氷川清話」勝海舟
○外交の極意は、「正心誠意」にあるのだ。ごまかしなどをやりかけると、かえって向こうから、こちらの弱点を見抜かれるものだよ。
維新前に岩瀬〔忠震)、川路〔聖謨)の諸氏が、米国と条約を結ぶときなどは、五州〔世界〕の形勢が、諸氏の胸中によくわかっていたというわけではなく、ただ知ったことを知ったとして、知らぬことを知らぬとし、正心誠意でもって、国家のために譲られないこと は一歩も譲らず、折れ合うべきことは、なるべく円滑に折れ合うたものだから、米国公使 〔ハリス〕もつまり、その誠意に感じて、のちには向こうから気の毒になり、相欺くに忍びないようになったのさ。
○要するに、外交上のことは、ずいぶん困難ではあるが、なにわれに一片の至誠と、断乎たる気骨さえあるなら、国威を宣揚することもけっしてむつかしくはない。(以下略)
勝海舟によれば、難しい交渉でも「明鏡止水のように心を磨ぎ澄ましておけば、機に臨み変に応じて事に処する方策が浮かんでくる」からあらかじめ作戦なんか要らないよとのことですが、これを額面どおりに受け止めると痛い目に会います。でも、「極意は、『正心誠意』にあるのだ。ごまかしなどをやりかけると、かえって向こうから、こちらの弱点を見抜かれるものだよ。」というアドバイスには大いに耳を傾けるべきでしょう。
いずれにしても、幕末から明治の激動の時代を生き抜いた勝海舟の言葉には勇気づけられます。難局に向き合うときに読むと多くの示唆やアドバイスがもらえます。もちろん勝海舟の肝の据わりようが尋常ではないので、現代の我々にはその境地に至るまでの道のりは長いものがあるのは事実ですが、それでもいつかはこうありたいと思わせてくれる言葉のオンパレードです。
今回の記事テーマとは無関係ですが、ご参考にもう一例だけ紹介するとこんな感じです。
○人間は、難局に当たってびくとも動かぬ度胸がなくては、とても大事を負担することはできない。今のやつらは、ややもすれば、知恵をもって一時のがれに難関を切り抜けようとするけれども、知恵には尽きるときがあるから、それはとうてい無益だ。
(出典) 「氷川清話」勝海舟
今のやつらは、あまり柔弱でいけない。冬がくればやれ避寒だとか、夏がくればやれ避暑だとか騒ぎまわるが、まだ若いのに贅沢すぎるよ。昔にはこのくらいの暑さや寒さに辟易するような人間はいなかったよ。そんな意気地なしが、なんで国事改良などできるか。
○ 昔の人は根気が強くて確かであった。免職などが怖くて、びくびくするようなやつはいなかった。その代わり、もし免職の理由が不面目のことであったら、潔く割腹して罪を謝する。けっして今のやつのように、しゃあしゃあとしていない。もしまた自分のやり方がよいと信じたなら、免職せられた後までも十分責任を負う。あとは野となれ山となれ主義のものはいなかった。
またその根気の強いことといったら、日蓮や頼朝や秀吉を見てもわかる。彼らはどうしても弱らない。どんな難局をでも切り抜ける。しかるに今のやつらはその根気の弱いこと、その魂のすわらぬこと、実に驚き入るばかりだ。(以下略)
こんな感じの語りが続く本なので、人によってはその自慢めいた言い方が鼻につくかもしれませんが、私はまったく気にならずむしろこの本から多くの勇気をもらいました。難しい交渉などに臨む前に読むと、スーッと肩の力が抜けて自然体で頑張ろうという気にさせてくれる本です。
コロナ禍を契機に対面での関係性構築が難しくなった面があるのかもしれませんが、信頼関係構築の重要性そのものには変わりないと思っています。